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ストーリーで学ぶ台湾の歴史:古代から現代まで

台湾の歴史を象徴するイラスト。中央の台湾島を中心に、オランダ船、日本統治時代の建物、現代の台北101などが円形に配置され、時代の移り変わりを表現している。

台湾という島は、長い年月の中でさまざまな人々や国に影響され、その歴史はまるで一本の物語のように紡がれてきました。
古代の神秘的な時代から、近代の劇的な変化、そして現代の躍動まで──台湾の歩みを順を追って見ていきましょう。
小中学生でも読みやすいストーリー仕立てで、台湾の歴史を旅してみます。

目次

先史時代と原住民族の時代

今から何千年も昔、台湾にはすでに人々が暮らしていたと考えられています。およそ 6,000〜8,000 年前には、オーストロネシア語族に属する先住民(原住民族)が台湾に定住していたとされます。
彼らは狩りや農耕を通じて集落を営み、独自の文化を育んでいました。当時は文字による記録がなく、神話や歴史は歌や語りで伝えられていたため、台湾の古代の物語は、主に後世の記録や考古学から読み解かれています。

やがて時代が下り、世界の「大航海時代」が訪れます。16 世紀半ば、ポルトガルの船乗りたちが台湾近くの海域を航行し、緑豊かなこの島を目にして「イルハ・フォルモサ(美しい島)」と呼んだと伝えられています。
これが後に、台湾の別名「フォルモサ」として知られる由来になりました。外の世界の人々にとって、台湾が歴史の舞台に登場し始めた瞬間でした。

オランダ・スペイン支配と鄭成功の時代(17 世紀)

17 世紀、ヨーロッパの国々がアジアへ進出してきたころ、台湾にも外国勢力の足音が迫ります。
1624 年、オランダ東インド会社が台湾南部の台南・安平地区に拠点を築き、要塞「ゼーランディア城」を建設しました。これが台湾におけるオランダ統治の始まりです。

同じ頃、1626 年にはスペイン人もフィリピンから北台湾の基隆や淡水に進出し、城を築いて北部を支配しました。こうして台湾は一時期、「南をオランダ、北をスペイン」という二重の支配状態になります。
その後、1642 年にオランダがスペイン勢力を台湾から追い出し、台湾全体がオランダの統治下に入りました。

オランダ統治下では、キリスト教の布教や、中国大陸からの移民受け入れによる農地開拓などが進められましたが、先住民との摩擦や移民たちの不満もくすぶり、大規模な反乱が起こることもありました。
そうした中で、台湾の支配者は再び交代することになります。

17 世紀後半、中国大陸では明から清へと王朝交代が進んでいましたが、明の復興を目指す人々も各地に残っていました。その一人が、後に台湾の英雄として知られる「鄭成功(てい せいこう)」です。
鄭成功は 1661 年、軍勢を率いて台湾に上陸し、激戦の末にオランダ軍を降伏させました。こうして約 38 年にわたるオランダ統治は終わりを迎え、台湾は鄭成功の支配下に入ります。

鄭成功は台湾を明朝復興の拠点と位置づけ、軍事政権を築きます。彼の統治は短期間で、1662 年には病没してしまいますが、その後は息子の鄭経、さらに孫の鄭克塽へと政権が引き継がれました。
鄭氏政権はおよそ 20 年ほど続き、台湾に「漢民族による政権」を初めて確立したという点で大きな意義を持ちました。

清朝統治と中国本土との関係(1683〜1895 年)

しかし、鄭氏政権も長くは続きません。清朝は反乱の火種を放置できず、ついに台湾へ軍を派遣します。
1683 年、清の提督・施琅が台湾を攻撃し、鄭氏政権は降伏。台湾は清朝の版図に組み込まれ、初めて中国王朝の正式な統治下に入ることになりました。

清朝は当初、台湾を福建省の一部として統治し、辺境の地として最小限の関与にとどめていました。
しかし次第に中国本土からの移住や開発が進み、多くの漢民族が台湾に渡って定住するようになります。その結果、台湾の人口の大半は漢民族系住民となり、先住民の人々は山間部へと生活の場を移さざるを得ないケースも増えました。

19 世紀に入ると台湾の重要性は高まり、1885 年には清朝が台湾を福建省から分離して「台湾省」を設置します。
清朝統治期の台湾は、中国本土との結びつきが強まり、漢族文化が根付いた時代でしたが、一方で統治の手が行き届きにくい「辺境」でもあり、各地で小規模な反乱や騒乱も発生していました。

19 世紀末、東アジア情勢に大きな変化が訪れます。日清戦争(1894〜1895 年)で清朝は日本に敗れ、1895 年に結ばれた下関条約により、清朝は台湾と澎湖諸島を日本に割譲することになります。
こうして約 212 年続いた清朝による台湾統治は終わりを迎え、台湾の支配者は再び日本へと交代しました。

日本統治時代(1895〜1945 年)

1895 年、日本は清朝から台湾の統治権を得て、ここから約 50 年にわたる日本統治時代が始まります。
突然異国の支配下に置かれた台湾では、当初各地で日本に対する抵抗運動が起こりました。一部の清朝官僚らは日本への引き渡しに反対し、「台湾民主国」という独立政権を宣言しましたが、日本軍によって短期間で鎮圧されます。

その後も、漢人や先住民による抗日運動や蜂起がたびたび発生し、日本側は軍事力を用いて鎮圧しました。こうした抵抗の歴史は、後に「霧社事件」などとして語り継がれています。

統治が安定すると、日本は植民地経営の一環として台湾の近代化を進めました。
鉄道や港湾、上下水道などのインフラ整備、学校や病院の設立、衛生環境の改善などが行われ、台湾は急速に近代化していきます。砂糖や米の生産も拡大し、台湾経済は日本本土と結びつきながら成長しました。

教育の面では、日本語が公用語として導入され、多くの子どもたちが学校で日本語教育を受けるようになります。このため、高齢の台湾の方々の中には今でも流暢な日本語を話せる人も少なくありません。
こうした近代化政策に対し、後年、当時を懐かしむ声もあれば、植民地支配として批判的に見る声もあり、評価は一様ではありません。

一方で、日本統治はあくまで植民地支配でした。政治的な参政権は制限され、日本人が支配層として圧倒的な権限を持ち続けました。
日本語の強制や改姓名、文化・宗教の制限など、同化政策も推し進められます。第二次世界大戦が激化すると、日本は台湾を重要な軍事拠点と位置づけ、台湾の若者たちを日本軍に動員することも行いました。

1945 年、第二次世界大戦の終結とともに、日本は連合国に降伏し、台湾の統治権を手放します。台湾は中華民国政府に引き渡され、日本人の多くは本土に引き揚げました。
こうして 50 年にわたる日本統治時代は幕を閉じ、台湾は再び新たな統治者を迎えることになります。

戦後の中華民国統治と国共内戦による変化(1945〜1980 年代)

1945 年、日本の敗戦により、台湾は中華民国の統治下に入ります。
50 年ぶりに「中国」に戻った形でしたが、日本統治を経験した台湾の人々と、中国本土からやってきた国民政府官僚との間には、文化や価値観の違いに加え、統治の仕方に対する不満が生まれていきました。

1947 年には、台北での小さな事件をきっかけに、市民の不満が一気に爆発し、大規模な抗議行動へと発展します。これが有名な「二・二八事件」です。
国民政府は軍を投入して鎮圧に乗り出し、多くの人々が犠牲となりました。この事件は台湾社会に深い傷を残し、「本省人(台湾生まれの住民)」と「外省人(中国本土出身者)」との対立を長く引きずる要因となります。

一方そのころ、中国本土では国民党と共産党の内戦(国共内戦)が再燃しており、最終的に共産党が勝利して 1949 年に中華人民共和国が成立します。
敗れた蒋介石率いる中華民国政府は台湾へと撤退し、政府ごと移ってきます。これにより、台湾は中華民国の本拠地となり、「もうひとつの中国」として存続することになりました。

国民党政権は台湾で戒厳令を敷き、一党独裁体制のもとで厳しい統治を行いました。
反政府的な言動は「共産主義者の疑い」とされて弾圧され、多くの知識人や学生が逮捕・投獄される「白色テロ」が続きます。政治的自由が著しく制限される一方で、経済面では大きな改革と成長が進みました。

土地改革によって農村の構造が変わり、やがて輸出型の工業化政策が推進されます。繊維や家電製品などの輸出が伸び、台湾経済は「台湾の奇跡」と呼ばれる高度成長を遂げました。
こうして台湾は、政治的には厳格な統治体制でありながら、経済的には豊かな社会へと変貌していきます。

現代台湾:民主化と経済発展、そしてアイデンティティ(1990 年代〜現在)

長く続いた戒厳体制にも、やがて変化の時が訪れます。1980 年代に入ると、台湾内外から民主化を求める声が高まり、蒋経国政権のもとで段階的な自由化が進められました。
そして 1987 年、ついに戒厳令が解除され、約 38 年に及ぶ非常体制が終わりを告げます。ここから本格的な民主化の時代が始まりました。

その後、台湾出身者である李登輝総統が政治改革を推し進め、1996 年には初めて総統の直接選挙が行われます。
人々が自分たちの手でリーダーを選ぶことができるようになり、台湾はアジア有数の民主国家へと成長していきます。

2000 年には、総統選挙で野党・民進党の陳水扁が勝利し、戦後初の政権交代が実現しました。以降、台湾では与党と野党の政権交代も複数回行われ、民主主義は安定した制度として根づいています。

経済面では、台湾はハイテク産業で世界をリードする存在となりました。特に半導体産業では、台湾企業が世界トップレベルの技術とシェアを誇り、スマートフォンや自動車、家電製品など、私たちの日常生活を支える重要な役割を担っています。

こうした中で、現代の台湾社会で特に注目されるのが、「自分たちは台湾人である」というアイデンティティの高まりです。
かつては「自分たちは中国人であり、いつか大陸を取り戻す」という教育が主流でしたが、民主化と世代交代が進む中で、多くの人々は「台湾」という土地や文化に強い誇りを持つようになりました。

現在、台湾は事実上、独自の政府・軍隊・通貨・選挙制度を持つ「一つの政治単位」として機能していますが、中国は今も台湾を自国の一部だと主張しています。
このため、国際社会における台湾の地位は複雑で、多くの国が台湾を正式な「国家」として承認してはいません。それでも台湾は、経済・文化・人的交流を通じて世界と深くつながり続けています。

歴史を振り返ると、台湾の歩みは実にドラマチックです。
先住民の暮らしから始まり、欧州列強の進出、漢民族の移住、日本による統治、戦後の混乱、経済の奇跡、民主化、そして現代のアイデンティティの模索まで──この小さな島には数え切れない物語が詰まっています。

台湾の歴史を知ることは、単に一つの地域の知識を増やすことではありません。
「なぜ今、台湾が国際ニュースに登場するのか」「台湾と日本はどのようにつながってきたのか」を理解する手がかりになります。歴史を通じて、私たちは台湾という島と、そこに生きる人々の思いに少し近づくことができるのではないでしょうか。

台湾の歴史年表(ざっくり整理)

  • 〜紀元前:先住民族が定住し、独自の文化を形成
  • 16 世紀半ば:ポルトガル人が台湾を「フォルモサ(美しい島)」と呼ぶ
  • 1624 年:オランダが台湾南部(台南)を拠点に統治開始
  • 1626 年:スペインが北台湾(基隆・淡水)に進出
  • 1642 年:オランダがスペイン勢力を排除し、台湾全域を支配
  • 1661〜1662 年:鄭成功が台湾に上陸し、オランダを追放。鄭氏政権が成立
  • 1683 年:清朝が鄭氏政権を滅ぼし、台湾を自国領に編入
  • 1885 年:清朝が台湾省を設置し、一つの省として位置づける
  • 1895 年:日清戦争後の下関条約で台湾が日本に割譲され、日本統治が始まる
  • 1910〜1930 年代:鉄道・港湾・学校・インフラ整備が進み、台湾が近代化
  • 1945 年:日本の敗戦により、台湾が中華民国の統治下に入る
  • 1947 年:二・二八事件が発生し、多くの台湾人が犠牲に
  • 1949 年:中華民国政府が中国本土から台湾へ移転。戒厳令体制の始まり
  • 1960〜1970 年代:輸出主導の工業化で「台湾の奇跡」と呼ばれる高度経済成長
  • 1987 年:戒厳令解除。民主化の大きな転換点に
  • 1996 年:初の総統直接選挙が行われる
  • 2000 年:野党・民進党の勝利で初の政権交代
  • その後〜現在:国際社会とのつながりを保ちながら、自由で民主的な社会を発展させている

台湾の歴史をたどることは、「今のニュース」を理解するための大切な土台になります。
お子さまと一緒に、地図や写真を見ながら話題にしてみるのも良いかもしれません。

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