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明正中の歩みと記憶をたどる(シリーズ外:三重県桑名市の学校再編 特別編②)

親子三代がリビングで笑顔で語り合う様子

\シリーズ連載中!/ 桑名市の学校再編を5回にわけて解説しています:

目次

なぜ「明正中」はなくなるのか――その問いに寄り添いたい

令和7年(2025)現在、桑名市の学校再編により明正中学校の廃止が計画されています。これは一部の保護者や地域住民にとって、大きな驚きと寂しさを伴う発表でした。

明正中に通っている塾生やその保護者の中にも、「自分の母校がなくなる」「わが子が在籍中に学校がなくなる」という喪失感を抱く方も少なくありません。

桑名市の中学校の“系譜”をたどる

明正中学校は桑名第二中学校として開校しました。成徳中、光風中とともに戦後まもなく設置されたこれらの学校は、それぞれ地域に根ざした中学校として発展してきました。なお、成徳中は「第一中学校」、光風中は「第三中学校」と呼ばれていた時代もありました。

数年前までは、成徳・明正・光風の各中学校の制服の襟にラインが1本、2本、3本と入っていたのをご記憶の方もいらっしゃるかもしれません。その名残で、ラインの本数がそれぞれの学校を表していたのです。これが、ラインの本数の由来です。なお、このラインの入った制服は、令和5年度の共通制服導入により順次姿を消していきます。

現在は桑名市内全中学校で共通制服が導入され、中学1年生から順に着用が進められています。そのため、現在は一部の中学3年生を除き、各校ごとの独自制服は見られなくなりつつあります。

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明正中の沿革と役割

明正中学校の歩みは、戦後の学制改革の直後に始まります。1947年に桑名中学校として創立、1948年には「桑名市立桑名第二中学校」として独立し、同年9月には現在の「明正中学校」と改称されました。

以降、プール・体育館の設置、耐震工事や空調設備の整備など、数々の改修を経て現在に至ります。1961年には陽和中、1974年には正和中の開校に伴い、校区が分離されました。

つまり、陽和中・正和中は、明正中から“分離独立”した学校であり、明正中は長く市街地の中心的役割を担ってきたのです。

http://jmeisei.kuwana-school.ed.jp/enkaku/gakkoushoukai1.HTM

なぜ明正中が廃止される計画なのか

児童生徒数の減少、施設の老朽化、校区バランスの調整に加え、新たな校舎を建設するための用地確保が困難であるといった要因が複合的に重なった結果、教育の集約と効率化の流れの中で明正中は廃止されることになりました。

決して学校としての価値が失われたのではなく、時代の流れと地域構造の変化の中でのやむを得ない判断といえます。

明正中に通った人、送り出した人へ

千尋進学塾には、明正中出身の講師・卒塾生・保護者も数多くいらっしゃいます。その多くが、明正中の校風を「落ち着きがあり、穏やかな学校だった」と語っておられます。

明正中は校区が広く、徒歩・自転車・バス・北勢線での電車通学など、さまざまな通学手段で、広い地域から生徒が集まってきました。

だからこそ、私たちはこの再編を単なる事務的な出来事としてではなく、「地域の記憶と想い」に寄り添って受け止めたいのです。

これからの学びに必要なもの

どんな校舎で学ぶかよりも、「どんな姿勢で学ぶか」「誰と向き合うか」が、子どもたちの成長には何より重要です。

千尋進学塾は、時代が変わっても変わらぬ姿勢で、「基礎学力の定着」「志望校合格」、そしてその先の「社会で生きる力」を育む教育を続けてまいります。


本記事は、千尋進学塾が中立的立場から公開情報に基づいて再編の動向を整理・解説しています。

※特定の立場を支持するものではありません。

追伸:記事を書いている途中、歴史を調べる中で、開校に向けて懸命に努力した人々の姿や、開校後に紡がれたさまざまな物語に触れ、改めて胸を揺さぶられる思いがしました。
自分が属していたコミュニティを失うことは、やはり心に深く響くものがあります。「前を向いて、現実を受け入れて」と言い聞かせても、それでもなお、悲しさや寂しさを感じてしまうのが人間の性なのでしょう。
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました(編著者)。

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