三重県を代表する進学校の一つ、四日市高校。
四日市市を中心に、桑名市など北勢地域からも生徒が通う高校で、長い歴史と大学進学実績を持つ学校として知られています。
ところで、四日市高校について、皆さんはどのくらいご存じでしょうか。
実は、四日市高校は1955年の夏の甲子園で全国優勝しています。また、校歌には著名な歌人と作曲家が関わり、応援歌の作詞を卒業生の小説家が手がけています。
さらに、かつては四日市南高校と一緒に入学者を選抜する「総合選抜制度」が実施されていた時代もありました。
今回は、進学校という一面だけでは分からない、四日市高校の歴史や文化、学校の特色などを幅広く紹介します。
四日市高校の歴史は1899年に始まる
四日市高校の歴史は、1899年(明治32年)に創立された「三重県第二中学校」にさかのぼります。
ここでいう「中学校」は、現在の中学校とは制度が異なる「旧制中学校」です。戦後の学制改革によって教育制度が変わり、その伝統が現在の高校へと引き継がれました。
三重県では、津高校が旧制第一中学校、四日市高校が旧制第二中学校、上野高校が旧制第三中学校の歴史を受け継いでいます。
四日市高校の前身校は、1919年(大正8年)に「三重県立富田中学校」と改称されました。その後、戦後の学校再編を経て、1955年(昭和30年)に現在の「三重県立四日市高等学校」という校名になりました。
現在の所在地は、四日市市富田四丁目。近鉄富田駅から近く、鉄道を利用した通学に便利な場所にあります。
創立から120年以上。四日市高校は、明治・大正・昭和・平成・令和という時代の変化を経験してきた学校なのです。
四日市高校の校歌を作ったのは、著名な歌人と作曲家
四日市高校の校歌には、興味深い歴史があります。
校歌の作詞を担当したのは、歌人・国文学者の佐佐木信綱(ささきのぶつな)です。
佐佐木信綱は、現在の鈴鹿市石薬師町の出身で、万葉集の研究などで知られています。1937年(昭和12年)には、第1回文化勲章を受章しました。
唱歌「夏は来ぬ」の作詞者としても知られる人物です。
一方、作曲を担当したのは、弘田龍太郎(ひろたりゅうたろう)です。
弘田龍太郎は、「靴が鳴る」「雀の学校」「浜千鳥」など、数々の童謡や歌曲を手がけた作曲家として知られています。
四日市高校の公式サイトによると、1948年、初代校長の福岡法重先生が校歌の制作を提案し、佐佐木信綱に作詞を依頼しました。
その後、弘田龍太郎の作曲によって校歌が完成しています。
また、佐佐木信綱は実際に四日市高校を訪問し、生徒たちを前に講演を行ったことも記録されています。
校歌というと、入学式や卒業式などで歌うものという印象が強いかもしれません。しかし、その制作に関わった人物や経緯を知ると、学校の歴史をより身近に感じられるのではないでしょうか。
校歌の楽譜や制作の経緯は、四日市高校公式サイト「校歌・応援歌」で紹介されています。
応援歌「希望の門」は、卒業生の丹羽文雄が作詞した
四日市高校には、校歌だけでなく、複数の応援歌があります。
その一つが「希望の門」です。
この応援歌の作詞を手がけたのは、四日市高校の前身校を卒業した小説家・丹羽文雄(にわふみお)です。
丹羽文雄は四日市市出身の作家で、日本の近現代文学に足跡を残した人物として知られています。
そして、応援歌「希望の門」の作曲を手がけたのは、古関裕而(こせきゆうじ)です。
古関裕而といえば、全国高等学校野球選手権大会の大会歌「栄冠は君に輝く」や、阪神タイガースの球団歌「六甲おろし」などで知られる作曲家です。
つまり、四日市高校の応援歌には、著名な小説家と、甲子園にも深い関わりのある作曲家が携わっていたのです。
「希望の門」は、一度歌われなくなっていた?
さらに興味深いことに、応援歌「希望の門」には、長い間、生徒たちに歌われなくなっていた時期がありました。
四日市高校の同窓会報によると、2012年ごろから生徒たちに再び教えられるようになりました。
その後、四日市高校の放送部は、応援歌の歴史や復活までの経緯を取り上げたドキュメンタリー番組を制作しています。
この作品は、NHK杯全国高校放送コンテストの三重県大会で入賞し、全国大会へ進出しました。
現在も応援歌は受け継がれており、2026年の入学式では、吹奏楽部と音楽部によって「希望の門」が披露されています。
もっとも、応援歌にどれほど親しんでいたかは、卒業生によっても違うようです。
行事などで耳にすることはあっても、実際に歌う機会はそれほど多くなかったという方もいらっしゃるでしょう。運動部などの活動を通じて、応援歌に強い愛着を持つ卒業生もいるかもしれません。
同じ学校で過ごしていても、一人ひとりが覚えている学校の風景は違うものです。
そうした思い出も含めて、学校の伝統は受け継がれていくのでしょう。
1955年、四日市高校は夏の甲子園で全国優勝している
四日市高校というと、現在は大学進学実績が注目されることが多い高校です。
しかし、かつては高校野球でも全国の頂点に立ったことがあります。
1955年(昭和30年)、第37回全国高等学校野球選手権大会に出場した四日市高校は、初出場で全国優勝を果たしました。
この大会での戦績は、次のとおりです。
- 2回戦:芦別高校(北海道)に3対1で勝利
- 準々決勝:城東高校(高知)に1対0で勝利
- 準決勝:中京商業高校(愛知)に6対1で勝利
- 決勝:坂出商業高校(香川)に4対1で勝利
決勝戦では香川県代表の坂出商業高校を破り、見事に全国制覇を達成しました。
1955年は、現在の「三重県立四日市高等学校」という校名になった年でもあります。
その年に夏の甲子園で全国優勝しているというのは、印象的な出来事です。
今の中学生や保護者の皆さんの中には、四日市高校が甲子園で優勝したことをご存じない方もいらっしゃるかもしれません。
なお、当時の試合結果は、朝日・日刊スポーツの高校野球大会アーカイブでも確認できます。
イオングループの岡田卓也氏など、多彩な卒業生
四日市高校は、文学や経済、文化、スポーツなど、さまざまな分野で活躍する卒業生を送り出してきました。
その一人が、イオングループの発展に大きく貢献した岡田卓也氏です。
イオングループの源流の一つには、四日市で営まれていた呉服店「岡田屋」があります。
私たちの身近にある商業施設の歴史が、四日市という地域、そして四日市高校の卒業生ともつながっているのです。
このほかにも、イラストレーターの大橋歩、映画監督の藤田敏八、小説家の丹羽文雄など、多彩な人物が卒業生として知られています。
学校の歴史を振り返る際には、大学進学実績だけでなく、卒業後にどのような分野で活躍してきた人がいるのかを知ることも興味深いものです。
校章は「八稜星」。スクールカラーは緑
四日市高校の校章やスクールカラーについても調べてみました。
四日市高校の校章は、八つの角を持つ「八稜星(はちりょうせい)」です。
その原型は、1899年に創立された三重県第二中学校の校章にさかのぼります。
当初は八稜星の中央に「二中」の文字が配されていました。その後、校名の変更などを経て、現在のように中央に「高」の文字を置くデザインになりました。
学校公式サイトでは、八稜星は若者がさまざまな分野へ発展しようとする情熱を表し、中央の「高」は生徒たちの団結を象徴すると説明されています。
四日市高校のスクールカラーは緑色
そして、四日市高校のスクールカラーは「緑」です。
これも学校公式サイトに記載されています。
由来は、応援歌「文にさときは」に登場する、緑の旗をひるがえすという表現にあるといわれています。
実は、四日市高校の卒業生の方に聞いてみたところ、スクールカラーが緑であることはご存じなかったそうです。
校章やスクールカラーは、在学中にはあまり意識しないものかもしれません。改めて調べてみると、卒業生でも知らなかった学校の歴史が見つかることがあります。
詳しくは、四日市高校公式サイト「校章」で紹介されています。
四日市高校と四日市南高校が一緒に入試を行っていた時代
四日市高校の歴史を語るうえで欠かせないのが、かつての高校入試制度です。
現在、三重県の公立高校入試では、受験生が志望する高校を選んで入学者選抜を受けます。
しかし、1974年(昭和49年)から1995年(平成7年)まで、四日市高校と四日市南高校の間では「総合選抜制度」が実施されていました。
いわゆる「学校群制度」の一つです。
総合選抜制度とは?
総合選抜制度とは、複数の高校を一つのまとまりとして入学者を選抜し、その後、生徒を各高校へ配分する仕組みです。
四日市地域では、四日市高校と四日市南高校が組み合わされていました。
現在のように、希望した高校への合格を個別に競う制度とは異なり、受験生の希望が必ずしもそのまま進学先に反映されるとは限りませんでした。
この制度には、特定の高校に学力の高い生徒が集中することや、学校間の格差を緩和しようという政策的な考え方がありました。
一方で、通学の利便性や校風の違いなどを考えると、希望する学校に進学できるかどうかは、生徒にとって大きな問題だったことでしょう。
四日市高校は近鉄富田駅のすぐ近くにありますが、四日市南高校は四日市あすなろう鉄道の西日野駅が最寄りです。
そのため、住んでいる地域によっては通学経路や所要時間に大きな違いがありました。
なお、当時、どのような基準で生徒を各高校へ振り分けていたのかについては、詳細な規定の確認が必要です。
当時の制度を覚えている方もいらっしゃるのでは?
総合選抜制度は1995年に廃止されました。
現在40代後半以上の方の中には、実際にこの制度の下で高校受験を経験された方もいらっしゃいます。
保護者の皆様や地域の方々の中にも、当時の高校入試について覚えている方がいらっしゃるかもしれません。
今の中学生にとっては、希望した高校に必ずしも進学できない仕組みがあったこと自体、意外に感じられるのではないでしょうか。
高校入試の制度も、時代とともに変化してきたのです。
1994年、国際科学コースが設置される
四日市高校では、1994年(平成6年)に普通科国際科学コースが設置されました。
注目したいのは、国際科学コースの設置が、総合選抜制度の廃止よりも1年早かったことです。
つまり、当時の四日市高校では、入試制度の見直しと、学校の教育内容の充実が近い時期に進められていたことになります。
現在の四日市高校には、普通科と普通科国際科学コースがあります。
国際科学コースは、高い学習意欲を持つ生徒たちが、大学進学などの目標に向かって学ぶコースとして知られています。
また、四日市高校は2003年に文部科学省のスーパーサイエンスハイスクール(SSH)の指定を受けました。
2014年にはスーパーグローバルハイスクール(SGH)にも指定され、理数教育や国際的な視野を育てる教育活動に取り組んできました。
2023年度からは、SSHの第III期としての活動が始まっています。
学校公式サイトによると、生徒が研究テーマに取り組む探究活動のほか、大学や企業との連携、海外研修なども行われています。
学校の伝統を受け継ぎながら、新しい時代に対応した教育を進めていることも、四日市高校の特色の一つといえるでしょう。
現在の四日市高校。大学進学実績と学校生活
四日市高校は、現在も三重県内を代表する進学校の一つです。
2026年の大学入試では、東京大学17人、京都大学18人、名古屋大学41人という合格実績を残しています。
これらの数字は現役生と既卒生を合わせた合格者数です。
ただし、大学合格者数だけで学校の価値を判断することはできません。
生徒がどのような進路を希望しているか、現役合格を重視するか、浪人してでも志望大学への挑戦を続けるかなどによって、合格実績の数字も変わってきます。
また、四日市高校の学校生活は勉強だけではありません。
毎年開催される文化祭「四高祭」では、生徒たちがさまざまな企画に取り組んでいます。
2026年の四高祭では、演劇や書道のパフォーマンス、漫才など、生徒たちによる多彩な企画が実施されました。
四日市高校が受け継いできた文武両道の伝統は、こうした日々の学校生活の中にも表れているのではないでしょうか。
四日市高校の歴史を知ると、高校選びの見方も変わる
ここまで、四日市高校の歴史を振り返ってきました。
1899年の創立、著名な文化人が携わった校歌や応援歌、1955年の甲子園優勝、学校群制度の時代、そして国際科学コースの設置。
現在の大学進学実績だけを見ていると、見落としてしまうような歴史がたくさんあります。
長い年月の中で、入試制度も教育内容も変化してきました。それでも、学校の名前や伝統は、卒業生や地域の人々によって受け継がれてきました。
中学生の皆さんにとって、憧れの高校を見つけ、その合格を目標に努力することは、学習を続ける大きな原動力になります。
一方で、高校への合格は人生の最終目標ではありません。
入学後に何を学び、どのような経験をして、その先の人生につなげていくのか。それも同じように大切なことだと思います。
千尋進学塾では、中学生の高校受験指導に加えて、高校生の学習指導にも携わっています。
だからこそ、志望校への合格だけでなく、進学後の学びや成長についても大切にしていきたいと考えています。
四日市高校を志望している中学生の皆さんも、保護者の皆様も、学校の歴史を知ることで、その魅力をこれまでとは少し違った角度から感じていただければ幸いです。
参考資料・関連リンク
この記事は、四日市高校の公式資料や同窓会資料、公開された報道などを参考に、千尋進学塾が独自に構成したものです。
- 三重県立四日市高等学校「沿革」
- 三重県立四日市高等学校「校歌・応援歌」
- 三重県立四日市高等学校「校章」
- 三重県立四日市高等学校「SSH」
- 四日市高校同窓会「同窓会報 第70号」(PDF)
- 星野幸代「メロディー“展示”による記憶の想起と生産――福島市古関裕而記念館」(PDF)
- 朝日・日刊スポーツ「1955年第37回全国高校野球選手権大会」
- リセマム「四日市高の大学合格実績2026」
- 婦人公論.jp「応援歌の作詞をOB・丹羽文雄が手がける『四日市高校』」
※学校の教育課程、大学合格実績、部活動などの情報は2026年11月時点で確認できる公表資料に基づいています。高校の制度や教育内容は変更される場合がありますので、最新情報は学校公式サイトでご確認ください。




